福沢諭吉先生のお墓参りに行くと慶應通信を卒業できるというジンクスは慶應通信生の多くが耳にしたことがあるのではないでしょうか。今日は卒論の息抜きも兼ねて「麻布山善福寺(港区元麻布)」に行ってきました。
この記事でわかること
- 福沢先生のお墓参りに行くと慶應通信を卒業できる理由
- 「麻布山善福寺」だけではなく「常光寺」にも行くべし
- 福澤諭吉先生のお散歩コースの距離感
福澤諭吉先生のお墓の場所はどこ
福沢諭吉先生のお墓がある「麻布山善福寺」は麻布十番駅の近くにあります。
私は慶應義塾大学三田キャンパス周辺に住んでいるので徒歩で行きました。
三田キャンパスの東門から「麻布山善福寺」までは約20分ほど、距離にすると1.3kmです。
福沢諭吉先生のお墓
「麻布山善福寺」の墓地の一角に福澤諭吉先生のお墓があります。
そのため、観光地に行ったときのように大人数で騒いだりすると周囲の人の迷惑になるかもしれません。
福澤諭吉先生のご命日である2月3日(月)、麻布山善福寺(港区元麻布)において120回忌の法要が行われました。この日は雪池忌(ゆきちき)とも呼ばれ、墓前には幼稚舎生や横浜初等部生をはじめとした一貫教育校生とそのご家族、塾生、卒業生、教職員など大勢の義塾関係者が訪れ、手を合わせました。当日は穏やかな晴天となり、参詣者の列が絶え間なく続きました。
ご命日である2月3日は門の外にまで参詣者の列ができるようですが、今の時期はゆっくりとお参りすることができました。
福沢諭吉先生のお墓参りに行くと、慶應通信を卒業できるというジンクスを考察
「福沢諭吉先生のお墓参りに行くと、慶應通信を卒業できる」
というジンクスを私が聞いたのは夜スクの総合講座でのこと。
慶友会の行事でお墓参りに行ったという話も聞きます。
慶應通信を卒業するためには、福沢先生のジンクス頼みではなく、最終的には自分自身の努力にかかっていますが、通信制大学で仕事とかけもちしながら学び直すという環境での大学生活ではモチベーションの維持がとにかく大事です。
卒業率が低い慶應通信を卒業するために、何よりも一番難易度が高いのはモチベーションの維持だと思っています。
特に、社会人学生にとっては勉強よりも難しいのではないでしょうか(´°ω°) 笑
そもそも、大学生と社会人ってそれだけでひとつの存在として成り立っています。
そう考えると社会人学生って、むちゃぶり感がすごいです 笑
本来、どちらか一つでいいものを掛け持ちしているわけですから。
慶應通信の難易度についていろいろ言われていますが、モチベーションの問題も大いにあると思います。
ですので、学び直しの意欲を高める機会をどんどん増やすのは慶應通信の卒業のための後押しになるはず(´ω`)✧
つまり、「福沢諭吉先生のお墓参りに行くと慶應通信を卒業できる」というジンクスが語り継がれている理由は、学びのモチベーションアップをしてくれる慶應通信生にとってのパワースポットだからなのだと思います。
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福澤諭吉先生のお墓がある「麻布山善福寺」の歴史
「麻布山善福寺」の歴史によると、福沢諭吉先生は「麻布山善福寺」を頻繁に訪れていていたそうです。
福沢諭吉先生のお墓参りに行くことで、生前の福沢諭吉先生が見た景色を追体験できます。
麻布山善福寺は、唐に渡り真言を極めて帰国した弘法大師によって、真言宗を関東一円に広めるために高野山に模して開山。
都内では金竜山浅草寺につぐ最古の寺院。
鎌倉時代
俊英の僧であった麻布山善福寺の了海上人は、流されていた越後から京に上る途中に訪れた親鸞聖人の高徳に傾倒して、一山をあげて真言宗から浄土真宗に改宗。
江戸時代
三代将軍徳川家光は、甲吉豊後守に命じて当時の建築の粋を集めて「麻布山善福寺」の本堂を建立し寄進。
安政6年(1859年)5月27日
「麻布山善福寺」は初代アメリカ合衆国公使館としてハリスと館員たちを迎えました。
その当時から、
- 慶應義塾創立者の福澤諭吉先生
- 三井物産創立者である益田孝氏
- 古河財閥創業者の古河市兵衛氏
が「麻布山善福寺」を頻繁に訪れていており、明治8年(1875年)12月8日までアメリカ合衆国公使館として使用されました。
昭和20年(1945年)5月
米軍による大空襲で当寺は伽藍を失いましたが、多方面より復興の声。
昭和36年(1961年)
徳川家康が建立した東本願寺八尾別院本堂を譲り受け本堂として再建完成。
平成20年(2008年)
門信徒の方々のご厚意により本堂の大改修。
平成21年(2009年)
江戸時代の大規模な浄土真宗の本堂をよく示す都内有数の建造物として港区の有形文化財に指定されました。
福沢諭吉先生のお墓は常光寺から麻布山善福寺へ
1901年2月3日に福沢諭吉先生は亡くなりました。
2月3日は福澤先生の御命日である。毎年この日は、先生の墓所の麻布山善福寺に、早朝から夕方まで墓参に訪れる塾生、塾員の列が絶えることはない。福澤先生の墓所が善福寺に移ったのは、昭和52年5月のことで、それまでは上大崎の常光寺にあった。
引用:常光寺――福澤先生永眠の地|慶應義塾機関誌|三田評論
実は、福沢諭吉先生のお墓が現在の「麻布山善福寺」に移葬されたのは、昭和52年5月のこと。
それまでは白金台駅から徒歩で7分ほどの場所にある「常光寺(東京都品川区上大崎1-10-30)」に埋葬されていました。
福澤先生は、朝の散歩を日課にしていたが、その時に、周囲が閑静で眺望が良いのを気に入ってこの地を自分の墓地として選んでいたという。当時は、隣の本願寺が管理しているというものの、廃寺の跡の空き地であったし、周囲も建てこんでいなかったから、坂の上のこの地からは遥か遠くまで見渡すことができたに違いない。
朝の散歩のときに、常光寺の周囲が閑静で眺望が良いのを気に入って、福澤先生自身は「常光寺」を自分の墓地として選んでいたのです。
昭和52年5月福澤家の意向により同家の菩提寺麻布山善福寺に改葬せらる。よって最初の瑩域を記念するため之を建つ。昭和53年5月14日」と記されており、裏面には、「この記念碑は福澤先生夫妻の柩の上に埋められてあった銘板をモチーフとして谷口吉郎君により設計されたものである」と刻まれている。
福澤家では、常光寺の敷地の一部になったことで宗旨の相違等による不都合や寺との行き違いが生じていたことから、菩提寺の善福寺に移転することになったのであった。しかし、先生が埋葬されていた地であるし、義塾社中の人たちにとっては、塾生時代から、長年御命日に墓参し続けてきた思い出深いところである。そこで、当時の塾長久野洋の発案を後任の石川忠雄が引き継ぎ、寺の協力も得て慶應義塾として記念碑を建てたのである。
近いうちに「常光寺」にも行ってみようと思います。
ちなみに、慶應義塾大学三田キャンパスから白金台の「常光寺」までは徒歩で39分!
距離にして2.8kmです。
自宅から三田キャンパスまでの距離があるので徒歩で行くのはなかなか大変かもしれませんが、自粛期間に少し体重が増えてしまったので運動も兼ねて行ってみます(´ω`)✧
おわりに
2020年の夏スクはオンラインなので慶應通信生が三田キャンパスに行く機会は減りますが、今後のスクーリングなどで三田キャンパスに立ち寄る際には学友を誘って、三田キャンパスの東門から「麻布山善福寺」までお散歩してみては。
三田キャンパスの東門からの距離は1.3kmとお散歩にちょうどいい距離ですし、慶應通信での思い出作りのひとつとしてオススメです。
ところで、三田キャンパスから「麻布山善福寺」までは1.3km、白金台の「常光寺」までは2.8km。
福沢先生のお散歩の距離にも驚きました。
麻布山 善福寺の詳細
所在地
〒106-0046
東京都港区元麻布1丁目6番21号
交通機関
- 東京メトロ 南北線 麻布十番駅 1番出口
- 都営地下鉄 大江戸線 麻布十番駅 7番出口